GALLERY SUZAKUIN

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斎藤真一 失われし心への旅

 真実を見抜いて、これは真実だと信じたその感動の表現がリアリズムと言いたい。自分はこのように見て、
こうありたいと願う熱い思いをカンヴァスの中に封じ込めてしまおうとする心なのだ。その心情と行為とに
偽りがなければそれが本当の意味のリアリズムであるのだと信じたいのだ。」註4
 明治吉原では久野を主題に描いたものと、吉原で同時代に暮らした遊女たち、そしてそこで繰り広げられ
た人生を物語風に作りあげられたものとに大別できる。これらの作品を制作するために斎藤はより神田の古
書店に近い都内に引っ越し、毎日のように神田の古書街に現れ、明治期の吉原資料を探し回り、その資料の
値段が一気に高騰したという伝説まで作りあげた。そして、遊女たちが身につける装身具の果てから、調度
品まで丁寧に考証を重ね、100年近い昔の明治吉原を昭和に完成させた。また、『吉原炎上』が五社英雄監
督によって映画化されたことも忘れてはいけない。
 明治吉原を終えてから亡くなるまでの期間を第六期の作画期としたい。この間斎藤は昭和ロマンとした女
性像を中心にした連作(《ねむの女》《花を摘む》)やさすらいのシリーズに立ち返った作品(《街角の楽
師(アンダルシアにて)》)などを発表している。この頃に至ってくると哀愁を主題にしていてもどことな
く往時の厳しさが消え、穏やかな作風となってきている。そして哀愁(私)の街角シリーズ半ばにして病に
倒れるのである。斎藤の病が発覚したのは平成4年、折しも斎藤真一心の美術館開館記念に開催される、斎
藤真一展準備の最中であった。斎藤の作品からあの厳しい悲しみが消えた理由はいったいなぜであったのだ
ろう。斎藤真一は気付いたのである。自分が人生のほとんどを費やして探し求めてきた風景、そして人々、
それはその人たちの姿を借りて自分自身を捜していたのだったと言うことを。自分が歩いてきたみち、それ
はいつも順風満帆ではなかったが、いつも必ず誰かがそっと手を差し延べてくれていたことを。その温かい
心があったがために自分は悲しみを描き続けられたことを。しかし、斎藤の画道という道はその命が潰える
まで燃え続けたと言えるだろう。
 これまで斎藤真一の油絵を中心に話を展開させてきたが、斎藤真一の特長としてそのデッサン力を紹介す
ることを忘れていけない。本展では《赤倉瞽女物語》《越後瞽女日記》《哀歌》の3作品が出品されるわけ
であるが、そのデッサンのすばらしさを実感して欲しい。斎藤は東京美術学校で寺内萬治郎や伊原宇三郎の
指導を受けている。デッサンのうまさはこの時養われたものといえるだろう。また、本の装幀も多く手がけ、
その完成度の高さも夢二と比較される由縁であると考えられる。

註1「味野の感傷」『斎藤真一放浪記』1978年12月、美術出版社
註2「信じている瞽女」『大法輪』1977年7月号
註3「自筆年譜」『斎藤真一放浪記』1978年12月、美術出版社
註4「私の雑記帳ーリアリズムへの傾倒」『芸術新潮』1977年10月号
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池田良平 天童市美術館学芸員

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失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月