GALLERY SUZAKUIN

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斎藤真一 失われし心への旅

池田良平 天童市美術館学芸員

 ヨーロッパでの斎藤真一は、真っ先に訪れた藤田嗣治の助言に従い、絵を描くことに主眼をおかず、よく
見、よく歩くことを大切にした。パリばかりでなくドイツ、オランダ、ベルギー、イタリアを巡り、中世の
町や、教会の壁画などを見てまわった。これらの旅はすべてモビレットと呼ばれるモーター付き自転車でお
こなわれた。
 滞欧時代の作品はグレーを基調をしたモノトーンに近い作品が多い。が、斎藤がのちによく取り上げるモ
ティーフもあらわれはじめる。《野火》に見られる、宙に舞う楽師や、赤い炎もその一つといえるだろう。
 第二期は渡欧前と後に細分できるであろう。後期ではおおむねグレーを基調とした風
景や、ヒエロニムス・ボスの影響を受けた人物群像、ジプシーたちが繰り広げる唄や踊りなどをモティーフ
にした作品が続く。《野火》がその作例としてあげられる。作中には晩年まで使われる帽子をかぶった男性
が楽器をもって登場し、画中全面にわたって旅芸人が登場している。旅芸人たちは一生懸命芸をし、自分た
ちの生を証明しようとしている。が、芸が生活に直結していることも明らかで放浪しながら生きている人の
哀愁を感じるような作品である。絵肌はとぎすまされ、なめらかになってゆくが、空の一部を風が流れるよ
うに一部荒く処理した作品もこの頃からである。風景の中に点景人物が現れるのも忘れていけない。《浮島》
《道》《入り江の乙女》など名作も残されている。
 しかし、斎藤は帰国後の個展以降、自分の画風を藤田風だ、ユトリロ風だという批判の声に傷つき、自分
を見失いそうになった。そして、帰国間際に藤田に教えられた東北を旅し、瞽女を知り、自分にはヨーロッ
パのジプシーや風景より日本の旅芸人や風景がふさわしいものだと気づいた。こういったことをふまえて、
この時代は真一が瞽女の画家としてスポットライトを浴びるための準備期間といえるだろう。

斎藤真一芸術の確立
 斎藤真一が瞽女ごぜをはじめて描いたのは昭和37年である。註3《鏡の前》という作品がそれであるが、作品
を見ただけではこれが瞽女であるということはわからない。斎藤自身が瞽女を意識して描いた作品のはじめ
だということである。そして、39年、斎藤は初めて瞽女宿に杉本キクエさんを訪ねた。
 この年は真一にとって稔り多い年であった。ひとつは9月に文春画廊で開催した個展の時に、終生の友と
なり、画業を支えてくれた不忍画廊の荒井一章氏と出会えたこと。もう一つは前述の杉本キクエさんと出会
えたことである。斎藤は翌40年から高校の休みを利用して瞽女宿巡りにかかりっきりになる。
 斎藤真一の次の作画期(第三期)は昭和41年から50年の渡仏までの10年間に区切られる。この間、斎藤は
瞽女とともに瞽女の辿る道を歩き、また一人の時は瞽女宿を巡り瞽女にまつわる話を記録して歩いた。瞽女
との邂逅は真一の遠き過去との邂逅といっても過言ではない。
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失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月

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