GALLERY SUZAKUIN

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斎藤真一 失われし心への旅

池田良平 天童市美術館学芸員

生いたちと初期の画業
 斎藤真一は大正11(1922)年岡山県児島郡味野町に斎藤藤太郎、益の長男として生まれた。味野は前述の
とおり小さいながら、劇場や映画館がありモダンな町であった。そして、古いしきたりが残っている町でも
あった。ここで繰り広げられた年中行事の一つひとつが幼い斎藤の記憶にならない記憶として刷り込まれ、
のちに出会うさまざまな土地の風景や風物と一体化し、作品として再生されていったと考えられる。
 斎藤は少年の頃から人一倍感性が豊かで、情が深かった。小学校に入る少し前頃から芝居が好きで、劇場
に芝居がかかったときは特等席をしつらえてもら、そこで食い入るように見ていた。絵を描くことも好きで
幼い妹のために描いてあげることもたびたびあった。また、夜には父とその弟子や仲間たちが奏でる尺八や
琴、三味線の音を聞きながら過ごしている。小学生くらいの子供たちは外に出て自然と親しむ機会が多く、
それを好むのが普通であり、斎藤も同様であった。ただ、後の斎藤の画業に影響する精神形成はこの劇場や、
夜の自宅でしっかり養われていったといえる。
 絵の世界に本格的にのめり込むようになったのは中学校に入学してからである。中学四年生の時の学級担
任、高木周平先生が東京美術学校出身で、絵の世界の楽しさを教えてくれたことがきっかけといってよいだ
ろう。それまでの斎藤は陸上部の花形選手であり、絵とは少し縁遠くなっていた。先生は倉敷市にある大原
美術館のすばらしさを説き、まだ閑散としていた大原美術館に訪れた斎藤少年は、一回でその魅力にとりつ
かれ、しばしば訪れるようになる。また、先生がもってきた藤田嗣治の複製画との出合いも重要なものとい
えるだろう。父は斎藤に軍人となって欲しかったが、この頃から美術学校へ進学したいという念が強くなり
はじめた。
 昭和15年、中学卒業。斎藤は岡山師範学校に入学する。ここでの2年間は美校受験のつもりでデッサン室
にこもりデッサンに明け暮れた。斎藤にとって絵画上衝撃的な出会いは中学時代に見た藤田嗣治の複製画だ
ったと考えられる。そして大原美術館で見た、グレコやコローの作品も同様であろう。ところが作画を行う
に当たって初めに傾倒した画家は岸田劉生であった。この年に描かれた《静物》は劉生をかなり意識した作
品になっている。

アカデミスムから斎藤的リアリズムへの転換期
 斎藤真一は念願の東京美術学校師範科にストレートで合格する。しかし、時代が悪く、戦時色が強まる昭
和17年の春であった。父の説得は出来ないまま、なかば勘当同然で家を出た。せっかく美校に入学したにも
かかわらず、翌年には学徒出陣し、岩手県で終戦を迎える。翌21年には美校に復学し、学内に掘建小屋をつ
くり、そこで暮らしながら学生生活を送った。本展に出品されている《少年》《シミーズの女》が学生時代
の作品である。《シミーズの女》は授業で制作したものなのか構図の取り方、光線の扱い方などが美術教育
で指導される基本的な描き方で描かれている。一方《少年》は小さな作品であるが、色調、タッチなどに斎
藤のナイーブな性格が現れているようだ。
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失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月

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