GALLERY SUZAKUIN

斎藤真一 失われし心への旅

瞽女ごぜの心、瞽女が歩く街並み、そこに見える風景は故郷味野の遠い記憶の中で暖められてきたもののように
感じられ、瞽女と瞽女の心に故郷を感じ取ったに違いなかった。自分の中にあるホンモノが何であるかとい
うことに気づいた真一は瞽女シリーズの中でそれらを爆発させた。第三期における最も特徴的なものはその
独特の色彩、『あか』の世界である。この赫は瞽女が失明する以前に見た色の中で一番の記憶、越後平野に沈
む真っ赤な太陽からきている。その赤は失明してからの何十年かで色の純度を高めていき、赫と表現するに
ふさわしい色彩であると斎藤は考えた。その心の奥底まで焼け付くような赫は観衆を惹きつけ、日本全土を
巻き込んだ瞽女ブームとなった。瞽女の作品ではいくつもの主題が錯綜している。総ての瞽女を記録する
(越後瞽女日記)、特定の瞽女の物語を記す(お春瞽女日記)、瞽女が出会った事件を記す、瞽女の辿った
道から想像して制作するなどがあげられる。斎藤はここで彼独特の表現方法を生み出すのだ。ひとつはヨー
ロッパ絵画の多翼祭壇画に影響を受けたのだろう三面扉絵。一枚の画面を複数に分割し、その中で物語を完
結させる様式。これらには第二期で培われてきた群像のモティーフや、藤田張りの面相筆を使った細かい表
現、劉生が使用した画中に文字を書き込む様式などが盛り込まれている。この中に見る赫の色はとても切な
く、日本人の心の奥までしみわたるだろう。そして、赫に対応するように使われる青と、まぶしいくらいに
輝く白が赫をいっそう引きたてている。
 第三期を代表する作品としては《星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)》(昭和46年。安井賞、佳作賞)
があげられるだろう。そして忘れていけないことは斎藤真一が画家としでばかりでなく、文筆家としても注
目されたということである。48年、『瞽女=盲目の旅芸人』で第21回日本エッセイスト賞を受賞。同年には
劇団文化座による『越後瞽女日記』を考証。また、齋藤耕一監督による『津軽じょんがら』の挿入絵製作と
考証にたずさわるなど、真一の行った瞽女に関する記録の正確さも高く評価されている。
 第四期は昭和50年の渡仏後から55年の『さすらい−斎藤真一画集』刊行までとしておく。この第四期はと
ても短い期間であるが、斎藤にとっては重要な期間であった。これまで続けてきた瞽女を中止し、もの悲し
そうにたたずむ男の連作に入った。《さすらいの楽師》はその代表作である。この男に対する斎藤の思い入
れは和田芳恵、大西祥治というかけがえのない人の死によるものであろう。この二人に対し斎藤は父の面影
を見ていた。つまりこの楽師は父でもあり、自分自身をも投影したのかもしれない。そしてこれはうがった
考えかもしれないが、渡欧後斎藤が制作した作品に立ち戻って描かれていると考えられる作品(《ピエロの
悲しみ》《現代の孤独》《青い来歴》など)が多く見られる所から、瞽女で自信を取り戻した斎藤が、再び
以前のテーマに立ち戻り納得いく作品を描きあげたかったのかもしれない。
 第五期は明治吉原のシリーズを描いた期間としたい。どうして期間をきっちり区切らないかというと、真
一自身の言葉によると吉原の連作をはじめたのは越後瞽女の連作が終わった昭和49年から昭和60年までとし
ているからである。そうなると第四期と第五期は並行して描かれていたことになり、分類上、混乱を招く可
能性がある。しかし、さすらいシリーズと明治吉原シリーズが並行して制作されてきたとしても吉原のシリ
ーズを発表したのが結果的に遅くなっているので明治吉原を第五期とした。
 斎藤にとって瞽女の連作以降、斎藤独自のリアリズムの追求が重要視されている。劉生のリアリズムのよ
うに目に見える総てを描き込まなくてはいけないというものではなく、心のリアリズムを大切にしていたと
言えるだろう。真一自身こう語っている。「私はここで、リアリズムとはそこに在るものを克明に再現する
しないの方法論ではないと言いたいのだ。
                       − 7 −

Copyright(C)SUZAKUIN,All rights reserved.

有限会社 朱雀院

本サイトで使用している全ての画像・デザイン・文章等の無断転載は固くお断りいたします。

池田良平 天童市美術館学芸員

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 [ 前 | 次 ]
8ページ中7ページ目を表示

失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月