GALLERY SUZAKUIN

本サイトで使用している全ての画像・デザイン・文章等の無断転載は固くお断りいたします。

 『明治吉原』も瞽女ごぜ同様に暗い面をもった日本文化といえる。吉原自体は江戸時代から文化の中心とな
り、そこに暮らす遊女も格式と教養をそなえ、いわばスターであった。しかし、そういった華やかな部分
はごく一部の遊女たちの世界であり、特に明治に入ってからの吉原では江戸の「吉原遊び」的な優雅なも
のは徐々に失われ、性行為のみがむき出しになっていた。明治維新を迎えて以降、倒壊した幕臣、旗本、
廃藩となった後の武士の奥方、息女にもこの世界に身を置くものが現れるようになった。教養を身につけ、
地位の高かった女性には吉原はいっそう厳しい世界だったことだろう。遊女は借金の肩代わりとして売ら
れるわけで、一定の期間を勤めあげればすべて帳消しとなり、年季明けといって吉原から去ることを許さ
れる。しかし、吉原の経済論理もしっかりしている。一度楼に入った遊女は一日過ごせばお金がかかり、
客を取ればお金がかかる。何をするにしてもお金が必要で、それは楼の儲けとなる。「遊女になればきれ
いな着物を着て、ただお酒の相手でもしていればいいのだから、こんな楽な仕事はない」こんな文句で遊
女として売られて行くわけだが、このとおりの暮らしをしていけば借金に借金がかさみ、一生吉原から抜
け出すことが出来なくなる。教養のないものたちならばこのようなからくりに気づくことなく吉原で一生
をおえてしまうのだろうが、経済観念があればその日その日の暮らしが辛いものとなってくる。このよう
な中で年季明けまでの日数を暦に印し、自分の抱えている借金の額を確かめながら日々を過ごした女性が
大勢いただろう。
 斎藤真一の養祖母、内田久野も吉原に身を委ねた一人であった。幼い真一によくしてくれた久野が若い
頃吉原に行って「太夫」にまでなった人だということは知っていたが、ある時古書店で手にした明治時代
の『吉原細見記』を見てから、吉原に行った久野のことが気がかりになる。そこには吉原に店を構える楼
の名前にはじまり、所属する遊女の名、出身地、本名まで描かれてあり、遊女の値段までが記されていた。
いわば吉原遊びをする紳士たちにとってガイド本のようなものであった。この細見記を手に入れてから、
こつこつと神田の古書街をまわり、細見記を、写真や資料を集め明治吉原の記録をまとめあげた。そこに
久野の姿を追い求め、同じ時代に生きた遊女たちの物語を知った。150点にものぼる明治吉原の作品が描か
れ、断片であった明治吉原の世界が一つの大きなパノラマとなり紹介された。何十年のも歳月を経て、斎
藤が復活させたのだ。
 斎藤真一の画業はこの二つのテーマだけを終始追い続けたのではなく、大正ロマンの画家、竹久夢二と
比較された『昭和ロマン』やヨーロッパを描いた『街角』の作品なども多く残されている。
 そして忘れていけないことは、瞽女にしても明治吉原にしても真一が描き残したものは失われていった
日本文化の記録にとどまらず、そこに確かに存在していた人々の心までをも描き残しているとという点で
ある。作品を制作するために出会った人々、人々によって紡がれ語りつがれてきた物語、当時の面影を残
す風景や資料、こういったものに出会うたび斎藤の心は震え、感動し一枚の作品として仕上げられた。そ
して、観者の暖かい息吹を浴びて本物となっていった。斎藤真一のほぼ50年にわたる画業を残された作品
と影響を与えた人々との出会いを紹介しながら振り返ってみたい。
                       − 3 −

有限会社 朱雀院

Copyright(C)SUZAKUIN,All rights reserved.

斎藤真一 失われし心への旅

池田良平 天童市美術館学芸員

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 [ 前 | 次 ]
8ページ中3ページ目を表示

失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月