GALLERY SUZAKUIN

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斎藤真一 失われし心への旅

池田良平 天童市美術館学芸員

 斎藤真一の画壇デビューは美校卒業の年であった。ここからを斎藤の画業とし、その第一期を昭和23年か
ら27年の伊東行きの前までとしたい。昭和23年、第4回日展に《鳥小屋》出品、初入選する。この年から4
年間連続で日展に入選を果たす。本展では《追憶》がその日展作品である。構図を藤田嗣治が大正時代に描
いた《静物》と比較すると、かなりの影響を受けていることがわかり、そこに岸田劉生のリアリズムを組み
合わせた作品といえるだろう。
 このころの斎藤は生活上とても苦しい時期であった。23年3月美術学校を卒業し4月から静岡市立第一中
学校に赴任していたが、12月に父が胃潰瘍による吐血をし、急遽味野に戻っている。しかし味野生活も長続
きせず、翌年8月に思い立ったように劉生が過ごした鵠沼に引っ越す。とはいえ収入を得る当てもない状態
での上京であったため、妻がつとめた給料だけの厳しい生活を強いられる。鵠沼生活はわずか10ヶ月しか続
かず、ふるさと味野に戻りすべてを最初からやり直すことになる。味野に戻ってからは生活も徐々に安定し
て行き、長男も生まれ、精神的にもゆとりが出てきていたと考えられる。昭和28年4月ようやく安定してき
た斎藤の生活に転機が訪れる。静岡第一中学校赴任時代にお世話になった鈴木誠志氏より伊豆の伊東高校で
教鞭を執らないかという手紙が舞い込んだのだ。学生時代から『伊豆の踊り子』の舞台である伊豆は斎藤の
あこがれでもあり、直ちに伊東行きを決心する。父の病状悪化を知りながらの伊東行きであり、気がかりな
ことも多かったが、伊豆で暮らす自分にたいする満足感はそれを差し引いても十分であった。しかしその代
償も大きく、父の死を看取ることが出来なかった。母ひとりが見守る中、息を引き取った父のことを終生気
に病んでいたようである。母も伊東に呼び寄せ、一緒に暮らし始める。
 伊東で描かれた作品を第二期とすると、第二期は瞽女の作品を描く前の65年までとしたい。この頃は岸田
劉生のリアリズムから脱却を始め、徐々に藤田嗣治の作風の影響下に入りはじめている。例えば《追憶》と
《時計のある静物》という画面構成ではほとんど同じような作品においても後者ではそこに存在する確かな
物体としての表現から、構図自体のおもしろさへ重みが偏っていき、全体に明るく仕上げている。画面表現
においても藤田独特の琺瑯質のマティエールをかなり意識しはじめている。
 伊東暮らしが安定するにつれて斎藤の心の中では油絵の本場ヨーロッパ留学の気持ちが湧き始め、日に日
に強くなっていく。独学でフランス語を習いはじめた頃でもあった。そんなとき井上喜美子さんと出会う。
この出会いが斎藤の運命を一歩前へ押し出すのである。井上さんは藤田嗣治の姪で、たまたま伊東の別荘に
やってきていた。斎藤が海辺で描いていた作品の中に藤田の作風を見つけ声をかけたのがきっかけであった。
留学したい胸の内を話す斎藤に対し、何も考えず行ってしまうことをすすめたのである。その言葉をずっと
抱きながら渡欧の準備を進め、井上さんにしたためてもらった藤田への紹介状を持ち、斎藤は渡欧するので
ある。残念なことに井上さんは不慮の事故で急に亡くなり、紹介状は彼女の死亡通知になってしまうのだっ
た。
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失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月