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斎藤真一 失われし心への旅

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失われし心への旅 斎藤真一展図録より 1999年5月

 「瞽女ごぜ」は、日本人の文化としてあまり残したくない文化ではないだろうか。『瞽女』は三人一組とな
り、自分たちのなわばりの村々を巡り、瞽女唄という独特の唄を歌い、メディアの発達していなかった人
々の間を流行や消息を伝えたりしながら旅し、収入を得ている人々である。瞽女は家業として代々続けて
いるものではない。何らかの理由で失明し、通常の生活が出来なくなってしまった少女が瞽女の親方に預
けられる。時には目あきの子供も預けられる。体のよい捨て子のような境遇といえるだろう。現在とは違
い福祉の発達していなかった頃は、盲目の少女を貧しい一般家庭では養っていくことが大変困難だった。
働くことの出来なくなった老人は姥捨て山に捨てられ、治る見込みのない病人も山においていかれる。目
が見えなくなった少女たちも同じように家族から見捨てられるしかない。その結果同じような境遇のもの
たちが肩を寄せ合って独自の技術を習得し、それを糧として生活することをあみ出した。いわば弱者の文
化であり、日本社会が成熟して行くにつれ、人間の平等が問われ、消えてゆく(あるいは文明国家という
名のもとに消されてゆく)文化だったのではないか。だが、その今まさに消えようとしていた文化だった
からというそれだけで瞽女にとりつかれたわけではなかったようだ。 昭和39年12月、斎藤真一は初めて
瞽女と言葉を交わした。雪の降るなか越後高田に杉本キクエさんという初老の瞽女を訪ねた。キクエさん
の話す言葉のひとつひとつすべてが自分の体験に基づき、ひとつも飾りがないことを知り、彼女らのつつ
ましいながら無駄のない生活に感動を覚えた。ここまで純粋な人に出会えたとき、瞽女という人々に日本
人の本来の姿を垣間みたように感じたのだ。斎藤の言葉を借りよう。「が、盲目の彼女たちの信仰はいわ
ば、日常の衣食住にわたる行為のひとつひとつににじみ出ている、もっとも素朴なところに生きているよ
うだった。それは、真宗の信仰であるとか、真言宗のそれであるというような、特定のものに限らない、
もっと包括的な信頼によって生活が覆われていた、という方が相応しいだろう。…」註2
 瞽女たちは自分たちの唄を待ってくれる人がいると信じて瞽女宿巡りをする。待っている人たちも瞽女
の来訪を信じている。この心からの信頼に斎藤は驚きを隠せなかった。 そして、この瞽女との出会いを
自分にとって、自分自身の本来の地に戻って行くべき邂逅であったと感じるようにまで至ったのだ。「芸
大を出て、それまでも絵を描いてきた私は、作画上の方法論については、多少は勉強もし知っているつも
りでいた。だが例えば、風景を描くとする。山があり、樹木があり、花がある。これは最も当たり前のこ
とであるが、空気の存在を忘れていたのである。風が吹き、雪が降り、雨が降るという大自然の鉄則を忘
れて、私は絵を描いてきたことに気づいたのである。
 このことを忘れて、芸術も文学も在る訳はないのだと悟った。学校の教育では、このことは教えられな
かったのだ。
 瞽女宿を巡る旅で思い知らされたことは、この当たり前のことであった。机上で観念的に知るのではな
く、瞽女の生き方を通じて私は肌でそのことを感じたのである。瞽女さんは、風のごとき、雪のごとき、
雨のごとき人だと思った。私たちは教育を受けて、一面では成長しているはずなのに、実は大切なものを
失っていると思われてならないのである。(後略)」註2
 斎藤真一は瞽女の生活をとおして、自分の歩むべき道を知った。消えてゆく瞽女という文化を見つめな
がら、そこに存在する純粋な心を記さなければいけないことに気づいたのだ。心があってはじめて自分の
絵画が成立するが出来た。斎藤の前に画道が開けた瞬間だったと考えられる。
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池田良平 天童市美術館学芸員